諸国神社めぐり

楯原神社(大阪市平野区喜連〈きれ〉)

楯原神社参道入り口
楯原神社(たてはらじんじゃ)は,地下鉄(谷町線)喜連瓜破(きれうりわり)駅の北東600メートルに鎮座する古社である。『延喜式』神名帳の「楯原神社」(摂津国住吉郡二十二座の一)に比定されている。
初め字楯原の地に鎮座し,建御雷命(武甕槌命)と大国主命を祭っていた。
文明十三年(1481)に現在地の近くに遷り,さらに暴風によって破損したため元和年間(十七世紀)に現在地に遷ったという。
このころ,字十五の地にあった龍王社(赤留比売命神社を分霊したもの)を合祀し,別に社殿を建てて祭った。また近くにあった天神社も合祀した。
その後いつしか当社は「天満宮」(祭神は菅原道真公)と呼ばれるようになり,次第に楯原神社の名は忘れられて別殿奥の宮に遷された。奥の宮の祭神も「赤留比売命」と誤認されるに至った。
明治五年(1872)に,別殿に祭られていた楯原神社が村社となり,天神社(無格社)と併立することになった。
明治四十年(1907),神社合併が進められた際,楯原神社は東西神社(素盞嗚尊と媛天神を嘉永年間に合併したもの)と春日神社とともに天神社に合併されることになった。
明治四十三年(1910)には,楯原神社に天神社・東西神社・春日神社を合併し由緒ある「楯原神社」の名に復することになった。
昭和二十六年(1951)に,東西神社と春日神社はその故地(喜連東2丁目)に戻された(今,八坂神社がある)。

楯原神社社殿 楯原神社本殿
本殿は銅板葺の流造である。
楯原神社拝殿破風楯原神社拝殿部分
拝殿は,周囲の彫刻や屋根瓦が美しい。

楯原神社境内楠社楯原神社境内神宝十種之宮
境内に神宝十種之宮が祭られている。
もと石上神宮(奈良県天理市)の神宝であったが,織田信長の焼き討ちの際に持ち出され,後に豊臣秀吉が手に入れて生魂の森に奉斎した。
幕末の混乱で再び失われたが古道具屋で発見され,転々として最終的に当社に奉納されたものである。

(大阪府大阪市平野区喜連6-1-38)
2011.2.21


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