諸国神社めぐり

二上射水神社(高岡市二上〈ふたがみ〉)

二上射水神社社頭
二上射水神社(ふたがみいみずじんじゃ)は,JR(北陸本線)高岡駅の北4キロメートル,二上山(ふたがみさん,ふたがみやま;274m)の南麓に鎮座する。
正式の社号は「越中総社射水神社」である。
『延喜式』(神名帳)の越中国射水郡十三座の一である。当社を「明神大社」とする本もあり,気多神社(北方3.5キロメートル)と並ぶ勢力を誇っていたと思われる。
おそらく二上山あるいはそこに降臨する神霊に対する太古の信仰が当社の起源であろう。
現在も「二上神」を祭神とするが,その実態には諸説(武内宿禰,大河音足尼,天二上命,大己貴命)ある。

当社は長い間,別当寺である二上山養老寺の管理下にあった。兵火で焼失・衰微したが,別当寺によって維持され,江戸時代には加賀藩の祈祷所となって復興した。
明治四年(1871)に国幣中社に列せられたが,同八年(1875)に高岡の市街地(現在の古城公園)に遷座した(→越中総鎮守射水神社)。
明治政府の神仏分離政策に従って神仏習合の色濃い当地を離れ,県民の崇敬の利便も考慮したとされるが,養老寺による長年の支配に対する反発が,明治政府の「神仏分離」の方針を絶好機として,強引に遷座したとされる(その後,養老寺は衰退した)。
その一方,氏神を奪われることになった当地の氏子たちの反発は強く,御神体を隠匿する(今,当社に平安後期の作とされる「木造男神座像」が伝わる)などの激しい抵抗運動があった。
結局,明治十年(1877)には,当地に「分社」を置く許可を得て,二上山に点在する摂社・末社もこの地に残った。古くから伝わる築山神事と獅子舞も当社だけで継承されている。
戦後になって当社は正式に独立し,社号を「越中総社射水神社」と定め,現在に至っている。
二上射水神社社殿二上射水神社拝殿屋根(部分)
妻入で建つ入母屋造りの拝殿は重厚な様式で,古社の風格を伝える。寛政五年(1793)の再建である。
二上射水神社拝殿細部(手挟と木鼻)二上射水神社拝殿(右の向拝柱)二上射水神社拝殿細部
拝殿には多くの手の込んだ装飾が見られる。
二上射水神社本殿
本殿は保護されていて部分的にしか見えないが,かなりの大きさのようである。

二上射水神社の拝殿と御神体を収める倉
拝殿の横に「木造男神座像」を収める倉が建っている。
築山神事
築山収蔵庫には「四天王」の人形などが並んでいる。
境外摂社の院内社と日吉社が加わる特殊神事「築山行事」で用いる祭礼の器物である。

(富山県高岡市二上)
2014.5.3


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