明和義人顕彰之碑(新潟市中央区一番堀通町〈いちばんぼりどおりちょう〉)

白山公園に建つ明和義人顕彰之碑
「明和義人」(めいわぎじん)として知られる涌井藤四郎英敏(1721-1770)と須藤佐次兵衛規方の功績を記念する顕彰碑は,新潟市の白山公園の一角に建っている。

明和四年(1767)に長岡藩から新潟町に御用金千五百両が課せられた。藩と町人の協議の結果,七百五十両ずつ二年間の分納が認められた。しかし翌年になって不況に見舞われた町民の不満が高まった。そこで涌井藤四郎は延納願いの署名状をひそかに町民に回覧した。涌井らの策動は徒党による不逞の謀議とみなされ,涌井は投獄された。
これに激昂した町民は日和山(今は住吉神社が鎮座する)に結集して暴徒と化し,古町通の商家を打ち壊すなどの狼藉の挙に出た。藩は事態鎮静のため涌井を釈放したが,なお町民の破壊活動はつづいた。多勢に無勢の役人は帰藩を余儀なくされ,ついに町政は涌井らの手に落ちた。
二か月後,涌井は長岡藩に呼び出され,投獄された。明和七年(1770),涌井は新潟に送られ,腹心の須藤佐次兵衛規方とともに市中引き回しのうえ斬首となった。

時代が変われば人の評価も逆転するのが常である。幕末のころから涌井らは「義人」と称されるようになった。
明治十七年(1884)には,涌井らの慰霊のため,近くの愛宕神社境内に口之神社が創建された。
白山公園のこの顕彰碑は昭和三年(1928)に建てられたものである。
碑文は以下のとおり(抜粋)

寶暦明和ノ頃 新潟ノ地ニ烈士二人ヲ産ス 曰ク涌井藤四郎英敏 曰ク須藤佐次兵衛規方 之レナリ(中略)
明和四丁亥歳 長岡藩主 賦金ヲ課ス 偶々天下凶歉 港津不振 資財逼迫 困窮極ニ達ス 市民之ヲ涌井氏ニ圖ル 英敏侠骨之ヲ憫ミ 其急ヲ濟ハント欲ス 藩吏誅求苛斂 峻厳ヲ極メ 市民終ニ不揆ヲ企ツ(中略)
明和七庚寅歳八月二十五日 斷頭臺上 從容トシテ死ニ就ク 須藤氏亦之ト壯ヲ共ニス(中略)
昭和三年九月二十一日 佐藤孝度謹撰

なお近頃,この事件を「新潟人の自主自立精神の象徴」などと宣伝する向きもあるが,我田引水というか,牽強附会というか,ちょっと軽薄ではなかろうか。

(新潟市中央区一番堀通町,JR越後線白山駅から徒歩15分)
2007.7.13


にいがた百景