にいがた百景

戊辰公園の色部長門君追念碑(新潟市中央区関屋下川原町〈せきやしもかわらちょう〉)

色部長門を記念する戊辰公園
色部長門君追念碑は,JR(越後線)白山駅の北西700メートル,新潟高校の近くの戊辰公園にある。
ここは戊辰戦争で戦死した米沢藩士の色部長門(いろべながと)を記念する公園である。
色部長門,本名は色部久長(いろべひさなが,1826-1868)。米沢藩の家老で,戊辰役当時は総督として幕府直轄地である新潟町の守護に当たっていた(会津への武器補給ルートが阿賀野川であったため,新潟は幕府軍にとって重要であった)。

米沢藩(奥羽列藩同盟)から派遣された色部長門は新潟の警備に当たっていた。
慶応四年(1868)七月,奥羽列藩同盟から新政府軍に寝返った新発田藩の手引きで新政府軍が新潟に上陸して関屋の金鉢山に陣を構えた。
色部長門らは新政府軍(薩摩,長州,高鍋,新発田の諸藩)と交戦し,このあたりで戦死した。長門は,敵の手に首が渡るのを恐れ,ここで切腹した。部下が介錯し,首をしばらく畑に埋めて隠し,その後,関屋の斎藤家がこれを保管し,十一月に色部家に戻されたという。
戦後,改易の危機にあった米沢藩はやむなく色部長門を戦犯として新政府軍に報告した。これにより色部家は家名断絶となった。
昭和七年(1932),関屋戊辰戦蹟保存会(発起人は斎藤巳三郎)によって終焉の地に碑が建てられた。

色部長門君追念碑色部長門君追念碑裏面
「嗚呼是レ色部長門君戰歿ノ地ニアラスヤ」に始まる碑文は徳富蘇峰(猪一郎,1863-1957)の撰,落合東郭(爲誠,1867-1942)の書である。篆額は上杉憲章による。

護国神社(西船見町)の境内には,両軍の戦没者の墓碑が集められている戊辰役殉難者墓苑がある。

(新潟市中央区関屋下川原町2丁目)
2008.10.26


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