諸国神社めぐり

八幡信仰

宇佐神宮上宮
八幡系の神社は稲荷社についで多く,その数は全国に二万社とも,また末社などを含めると四万社以上ともいわれる。その起源は大分県宇佐市の宇佐神宮にある。神格の起源については不明な点が多い。
八幡神は『古事記』などには登場しない神である。おそらく,この地を支配した豪族の宇佐氏の信仰が起源で,信仰の古層には,御許山(おもとさん;現社地の南東5キロメートルにある標高647メートルの霊山で,頂上の周囲は禁足地であるが,3つの巨石が並んでいるという)に対する山岳信仰があると思われる。

神社の形態が整備される過程で,宇佐の土着の神が突然,皇統と結びついた。
このころ,宇佐氏に代わって大神氏がこの地を支配していたが,祭祀を主宰する大神比義(おおがのひぎ,おおみわのなみよし)なる者に対して,宇佐神から「われは応神天皇(ホムタワケノミコト)である」という神託がくだったのである。
これにより,元来は土着の神であった宇佐神は,天照皇大神を祀る伊勢神宮につぐ皇室第二の宗廟としての地位を得て天皇家に接近することになった。
神亀二年(725)には現在の地(小倉山,小椋山,亀山)に奉斎され,天平三年(731)には官幣を賜った。これが現在に至る宇佐八幡信仰の起源である。

宇佐神が応神天皇と結びついたころ,宇佐の地には辛嶋氏という渡来系の集団が勢力を伸ばしていた。
辛嶋氏の信仰の中心は香春神社であった。
西北西50キロメートルの香春岳一帯を支配した新羅系の辛嶋氏が東進し,宇佐にまで到達し,大神氏と接触したと思われる。
宇佐八幡の神が地位を高めたのはこのころであろう。 八幡神の祭祀集団は医術をよくし,しばしば天皇の治療にも当たったという。
このような最先端の技能は,渡来人由来と考えるほかない。
香春岳の山麓で鋳造した銅鏡を宇佐神宮に奉納したとする伝承が香春の古宮八幡宮清祀殿に伝わっており,渡来人の神と宇佐神との交流を暗示している。
そもそも,応神天皇の母である神功皇后も朝鮮系であるとされる(後述)。

天平十七年(745),奈良東大寺で大仏の鋳造が始まったが,神託によって大神氏は奈良に入り,鋳造にともなう諸問題を神託によってたびたび解決したという。宇佐神の祭祀集団は最先端の金属加工技術を持っていたのである。
大仏が完成した天平勝宝元年(749)には宇佐神が奈良に入り(東大寺の守護として平城京の近くに八幡宮が勧請された→手向山八幡宮),これをきっかけに宇佐神が国家の重大事に関与することになった。
皇位をうかがう弓削道鏡を退ける託宣を下した功績がよく知られている。(神託を得た場所は宇佐神宮の摂社大尾神社とされる。)

早くから仏教と深く習合したことも八幡神の特徴である。大仏建立に先立つ天平十年(738),宇佐神宮の境内に弥勒寺の金堂などが建立された(今は弥勒寺跡として礎石が残っている)。
最澄の崇敬も篤かった。天台僧の金亀(こんき)が「大分郡に別宮を建てよ」という神託を得て,由原の地に宇佐神を分霊した(天長四年−827)。これが大分市八幡(やはた)に鎮座する柞原八幡宮(ゆすはら〈いすわら〉はちまんぐう)である。

貞観二年(860)には大安寺の僧が京都男山の地に,宇佐から八幡神を勧請して岩清水八幡宮を建てて都の守りとした。
十世紀ころから清和源氏が氏神として八幡神を信仰し,源義家は岩清水八幡宮で元服して「八幡太郎」を名乗った。これ以後,武士の勢力範囲の拡大とともに,八幡信仰は関東・東北にまで広がっていった。
鎌倉幕府が岩清水八幡宮から分霊して鶴岡八幡宮を建てて崇敬するようになってからは,武神としての性格をいっそう強めた。ことに十三世紀末に中国が企てた侵略戦争(文永の役,弘安の役)では,神威を遺憾なく発揮し,中国(元)と朝鮮(高麗)の連合軍の前に立ちはだかり,侵略軍の戦意をくじいて殲滅した。

現在,八幡神社の祭神は,誉田別尊(ホムタワケノミコト;応神天皇),比賣大神,気長足姫命(オキナガタラシヒメミコト;応神天皇の母すなわち神功皇后)の三神,あるいは応神天皇,仲哀天皇(応神天皇の父),神功皇后の三神である。

『古事記』などの伝えるところでは,朝鮮半島への遠征をうながす住吉三神の神託が神功皇后に下ったが,仲哀天皇はその託宣を疑ったため,神の怒りに触れて神事の最中に急死した。
神功皇后は神託に従って朝鮮に遠征し,新羅を服属させた。新羅王を馬飼いとして使役し,百済国には食料備蓄基地を置いた。
この戦役の時,皇后は身ごもっていたが,腰に石を結び付けるという呪術によって出産の日を延ばしたとされる。遠征を終え,筑紫に戻って産んだ子がホムタワケである。
戦勝後に神功皇后が住吉三神を祭ったのが摂津の住吉大社の起源とされる。また住吉三神が生まれた場所が筑前の住吉神社だとされる。(→住吉信仰とは?
その後,皇后はホムタワケの異母兄らを殺し,ホムタワケを皇太子とした。これが応神天皇である。

応神天皇系図
住吉大社の古記録には,神功皇后は住吉の神と密通したとされている。また『古事記』の記事では,朝鮮遠征の神託を得るさい,家臣に「腹の子はいずれの子か(坐其神腹之御子,何子歟)」と聞かれたが,「男である(男子也)」と,答えをはぐらかしている。
ホムタワケは仲哀天皇の子ではないのかもしれない。神功皇后が呪術によって出産を帰還後に延期したという伝承は,ホムタワケの父親が仲哀天皇ではなく朝鮮系であることを隠蔽する工作であろうか。そもそも『古事記』によれば,神功皇后の母は新羅王子アメノヒボコの末裔であるから,いずれにしても応神天皇は朝鮮王族の血につながるのである。(→参考:神功皇后系図
奈良盆地を勢力圏としていた三輪王朝に代わって河内地域に新王朝をおこした仁徳天皇の父がホムタワケということになるが,ホムタワケは河内の新王朝のために作られた架空の天皇(あるいは神功皇后の私生児で朝鮮系)で,両王朝の男系の血統には連続性がないのかもしれない。

ところで,応神天皇の後裔の二十五代武烈天皇に子が無かったため,皇統が断絶に瀕した。しかし応神天皇の五世(あるいは六世)の孫と称する継体天皇の出現によって男系の断絶が回避された。
この時,十親等以上隔たった男子が皇位を継承したのであり,この皇位継承の正当を(さらには天皇の万世一系を)保証するためには,武烈と継体の血を結ぶ八幡神(=応神天皇)の存在は不可欠である。

八幡総本宮 宇佐神宮(公式サイト)


新潟市の八幡神社(一部)〈新潟市神社総覧より〉