八幡信仰

八幡系の神社は稲荷社についで多く,その数は全国に二万ともいわれる。その起源は大分県宇佐市の宇佐神宮にある。神格の起源については不明な点が多いが,もとはこの地の土俗的な神だったと思われる。本来の神格については,海神,鍛冶神,渡来系の秦氏の氏神など諸説がある。豊前北部のヤハタ神と南部のヒメ神の信仰が融合したとも考えられている。
現在,宇佐神宮の本殿は三殿で構成されているが,「比賣大神」の鎮座する「二の御殿」が中央に位置し,最も大きい。応神天皇(一の御殿)と神功皇后(三の御殿)はむしろ「脇役」であるかのようである(京都の岩清水八幡宮では応神天皇が中央に祀られている)。宇佐神(比賣大神)を中心としたこの地の初期の信仰を伝えているのであろうか。
宇佐神の祭祀集団は中国・朝鮮とのつながりも持っていたらしく,道教系の医術をよくし,しばしば天皇の治療にも当たったという。

六世紀なかばに,宇佐の神が突然,皇統と結びつく。このころ大神比義(おおがのひぎ,おおみわのなみよし)なる者が祭祀を主宰していたが,宇佐神から「われは応神天皇(ホムタワケノミコト)である」という神託が下ったのである。
これにより宇佐神は,天照皇大神を祀る伊勢神宮につぐ皇室第二の宗廟としての地位を得て天皇家にさらに接近することになった。神亀二年(725)には現在の地に奉斎され,天平三年(731)には官幣を賜った。

天平十七年(745),奈良東大寺で大仏の鋳造が始まったが,神託によって大神氏は奈良に入り,鋳造にともなう諸問題を神託によってたびたび解決したという。宇佐神の祭祀集団が最先端の金属加工技術を持っていたことをうかがわせる。
大仏が完成した天平勝宝元年(749)には宇佐神が奈良に入り,これをきっかけに宇佐神が国家の重大事に関与することになった。弓削道鏡を退ける託宣を下した功績がよく知られている。(神託を得た場所は宇佐神宮の摂社大尾神社とされる。)

早くから仏教と深く習合したことも八幡神の特徴である。大仏建立に先立つ天平十年(738)には早くも宇佐神宮の境内に弥勒寺が建立されていた(今は礎石が残っている)。最澄の崇敬も厚かった。天台僧の金亀(こんき)が「大分郡に別宮を建てよ」という神託を得て,由原の地に宇佐神を分霊した(天長四年−827)。これが大分市八幡(やはた)に鎮座する柞原(ゆすはら,いすわら)八幡宮である。

貞観二年(860)には大安寺の僧が京都男山の地に宇佐から八幡神を勧請して岩清水八幡宮を建て,都の守りとした。
十世紀ころから清和源氏が氏神として八幡神を信仰し,源義家は岩清水八幡宮で元服して「八幡太郎」を名乗った。これ以後,武士の勢力範囲の拡大とともに,八幡信仰は関東・東北にまで広がっていった。
鎌倉幕府が岩清水八幡宮から分霊して鶴岡八幡宮を建てて崇敬するようになってからは,武神としての性格をいっそう強めた。ことに十三世紀末に中国が企てた侵略戦争(文永の役,弘安の役)では,神威を遺憾なく発揮し,中国(元)と朝鮮(高麗)の連合軍の前に立ちはだかり,侵略軍の戦意をくじいて殲滅した。

現在,八幡神社の祭神は,誉田別尊(ホムタワケノミコト;応神天皇),比賣大神,気長足姫命(オキナガタラシヒメミコト;応神天皇の母すなわち神功皇后)の三神,あるいは応神天皇,仲哀天皇(応神天皇の父),神功皇后の三神である。

『古事記』などの伝えるところでは,朝鮮半島への遠征をうながす住吉三神の神託が神功皇后に下ったが,仲哀天皇はその託宣を疑ったため,神の怒りに触れ神事の最中に急死した。
神功皇后は神託に従って朝鮮に遠征し,新羅を服属させた。新羅王を馬飼いとして使役し,百済国には食料備蓄基地を置いた。
この戦役の時皇后は身ごもっていたが,腰に石を結び付けるという呪術によって出産の日を延ばしたとされる。遠征を終え,筑紫に戻って産んだ子がホムタワケである。
戦勝後に神功皇后が住吉三神を祭ったのが摂津の住吉大社の起源とされる。また住吉三神が生まれた場所が筑前の住吉神社だとされる。(→住吉信仰とは?)
その後,皇后はホムタワケの異母兄らを殺し,ホムタワケを皇太子とした。これが応神天皇である。

応神天皇系図
住吉大社の古記録には,神功皇后は住吉の神と密通したとされている。また『古事記』の記事では,朝鮮遠征の神託を得るさい,家臣に「腹の子はいずれの子か?」と聞かれたが,「男である」と言い,答えをはぐらかしている。
ホムタワケは仲哀天皇の子ではないのかもしれない。あるいは,神功皇后が呪術によって出産を帰還後に延期したという伝承は,ホムタワケの父親が仲哀天皇ではなく朝鮮系であることを隠蔽する工作であろうか。そもそも『古事記』によれば,神功皇后の母は新羅王子アメノヒボコの末裔であるから,いずれにしても応神天皇は朝鮮王族の血につながるのである。(→参考:神功皇后系図
奈良盆地を勢力圏としていた三輪王朝に代わって河内地域に新王朝をおこした仁徳天皇の父がホムタワケということになるが,ホムタワケは河内の新王朝のために作られた架空の天皇(あるいは神功皇后の私生児で朝鮮系)で,両王朝の男系の血統には連続性がないのかもしれない。

ところで,応神天皇の後裔の二十五代武烈天皇に子が無かったため皇統が断絶に瀕した。しかし応神天皇の五世(あるいは六世)の孫と称する継体天皇の出現によって男系の断絶が回避された。
この時,十親等以上隔たった男子が皇位を継承したのであり,この皇位継承の正当を(さらには天皇の万世一系を)保証するためには,武烈と継体の血を結ぶ八幡神(=応神天皇)の存在は不可欠である。

新潟市の八幡神社(一部)


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